〜西の湖は、消えて行った琵琶湖の内湖の中にあって奇跡的に残された宝物です。
かってこの湖(うみ)が美しい水に満ち溢れ、多くの生き物を育てていたことを知る者
にとって、この湖が高度成長時のように特定の利害関係者の目先の利益のみで、そのありようが決められることは許されないと考えています。
この宝物は公のものであり、子孫からの預かりものです。
西の湖保全自治連絡協議会(以下連絡協議会と言います)は西の湖とそこに流入する河川流域の保全整備について、その流域に住み、その真の値打ちを知るものの代表として、西の湖の景観、環境、治水、利水の保全について西の湖美術館づくりと名づけた
以下の提案をおこなうとともに、行政から出される具体的な提案についてパブリックコメントの代表の役割を果たす組織になりたいと望んでいます。〜
現在の西の湖の東側と北側には、それはそれは美しい水を湛えた大きな内湖*がありました。
東側には安土山を半島にして西に弁天うみ、東に伊庭内湖を併せた小中の湖。
北側には近江八幡、安土、能登川一市二町にかけて広がる、中のうみと呼ばれていた大中の湖です。
*注:この内湖の面積は合計で1709ha、内、干拓された小中の湖342 ha、同、大中の湖1145ha現存する西の湖 222ha
これらの内湖は容易に干拓されるくらいですから、水深は平均して1.5m、湖底は内湖に流れ込む川が運んできた泥と砂が適度に分布し、湖岸はその殆どが所々にヤナギの生えるヨシ原でありました。
かっては琵琶湖とつながっていたであろうこれら内湖が、愛知川が運んできた砂を北風がさらに運んで、砂洲を形成したことにより遮断され、外側となった琵琶湖を そとのうみ、内側となった湖を なかのうみ と土地の人たちが呼ぶようになったのは何時の時からかはわかりませんが、それ以来ほんの数十年前まであまり大きく姿を変えることなく豊かな生命を育む湿地として存在してきたのです。
干拓前の内湖を知る年寄りたちは一様に失われた内湖の情景を惜しんでこう言います。
「澄み切った水、砂地の湖底にはコウガイ藻が生え烏貝、泥貝、池蝶貝そしてシジミが砂から顔を出す。水中に立つと多くの小魚が脚をつつきよる。ボテ雑魚やハイ(ハヤ)・オイカワは陽光にきらめく。菜種の頃になると琵琶湖から産卵のために来たモロコが雪解け水によって冠水した田に音をたてて遡ってくる。ヨシ原の岸辺の柳の根には卵を産み付けようと群がるメスのモロコと受精させようとするオスのモロコが重なりあって山をつくる。梅雨の頃には鯉や鮒が産卵のために流れ込む川に群れをなして遡る。川の中にはメダカ、泥鰌、タニシ、小エビ、様々な水生昆虫や昆虫の幼虫が住み、湖周の空には鬼ヤンマ、ギンヤンマが、群れなすシオカラトンボやアキアカネの中をスイスイーと飛んでくる」と。
わが国の古称である豊葦原の瑞穂の国や秋津洲(アキツシマ)の原風景を彷彿とさせる風景がほんの数十年前までここにあったのです。
「それがなよ、暮らしはべんりになってきたが、うみがなよ」年寄りのこの豊浦弁のつぶやきが、西の湖美術館づくりのきっかけとなりました。
このネーミングは東近江水環境自治協議会(以下当会と呼びます)の設立時の理事の一人であった細矢昌孝さんが西の湖保全のあるべき姿をこの名に託して述べたもので、湖の周辺それぞれの場所で見る景色が、あたかも美術館の絵を順に眺めるようにしたいこと。また美術館の絵が時代を超えて大切に保管されているように、西の湖が聖域として維持されるべきであること。そして、この美術館の館長は ヨシ、副館長は緋鯉、そのもとで美術館実現に努めるのが悔い改めた人間どもということにしようではないかと決めたことに由来します。
何故そうなのかは当会活動の中の創作環境狂言にありますのでご紹介しましょう。
平成13年(2001年)当会の発足の次の年、21世紀を迎えるに当たって、当会発足のお披露目と発展のための起爆剤となるようなフォーラムを行なおうと計画したのが、西の湖に流れ込む蛇砂川、山本川を想定した流域フォーラムでありました。
フォーラムの第3部に西の湖を舞台とした新作環境狂言が上演できないものかと、縁あって知り合った重要無形文化財保持者の大蔵流狂言師木村正雄先生を西の湖に連れだし、恐れも知らず「先生、この うみ を舞台に創作環境狂言を作っていただけないだろうか」
とお願いしたのです。
「無茶言いよる」と苦笑しながらも、折から問題となっていた外来魚の駆除をテーマに「琵琶の湖(うみ)」というバラエティ狂言を作っていただいたのです。この上演はフォーラムに来ていただいた1,000人を越える聴衆に強い印象を与え、会発展のジャンピングボードとなりました。
この狂言は、その後滋賀県で開催された第9回世界湖沼会議に続編「琵琶の湖—その後」という正規の型を踏んだ狂言へと進展し、結局二つの狂言が誕生したのです。その後、第3回世界水フォーラムではこの二つを合体させて大津会場で上演されるという経過を辿りました。その後の上演は合体した形で行われることが多くなっています。
この二つの狂言のテーマは、駆除される側のブラックバスやブルーギルの目からみた人間の性(サガ)をとりあげたもので、琵琶湖の固有種の魚と鳥の連合軍に山本川河口付近で敗れたブラックバス(大名)とブルーギル(太郎冠者)が琵琶湖を追われて(琵琶の湖)故郷に帰る途中ハワイのあたりで、ミシガン湖を追われて日本に帰る鯉(狂言では女性が演ずる緋鯉)に偶然出会い、人間の都合で連れてこられたと思ったら、都合が変って追い出される。こんな理不尽なことはないと、身の上話を交わす中で(琵琶の湖—その後—)人間の身勝手さを「思ってみれば、人間も悲しい動物じゃのう。頭が良いが欲どおしい」「情緒的ではあるけれども、個人主義であり過ぎる」「今の利益には聡いが、明日のことを考える能力と、それを実行する決断力に欠けている」と交々語り合い、人間の運命は「真っ直ぐに橋の無い崖に向って走る車」その時気付いてもう手遅れ・・・「今改めれば、まだ間に合うが、明日では遅いよ、人間どもよ。明日では遅いよ、人間どもよ。」と舞い踊って終わる筋書きなのです。ミシガン湖から戻ってきた緋鯉が落ち着いた先は西の湖です。
初演の舞台の背景には勿論、西の湖のヨシがたっぷり使ってありました。
美術館づくりは、平成12年 滋賀県が発表した 琵琶湖総合保全整備計画 通称 マザーレイク21計画実現のため、西の湖を小さな琵琶湖に見立てて、様々な施策実験を積み上げ、次に引用するマザーレイク21の計画目標実現に寄与したいと考えています。
したがって、美術館づくりのあるべき姿のイメージはマザーレイク21計画のあるべき姿と多くの点で重なります。 すなわち、
「計画目標 概ね50年後(2050年頃)の琵琶湖のあるべき姿を念頭に、約20年後(2020)の琵琶湖を次世代に継承する姿として設定し、第1期および第2期においてそれぞれ次の3つの目標を不可分のものとして取り組みます。
計画期間前半12年間の第1期においては、既存施策を絶えず見直し、着実に実施することを基本に、施策間の連携をはかり、あらたな施策やモデル的な施策を講じながら、調査とモニタリングの継続を図ります。第2期においては第1期で得られた新たな知見と経験に基づいて、予見的な取り組みに重点を移しながら、保全対策を更に推進します。
又、推進に当たっては、長期にわたることから、現時点では予測できない変化が生ずることも想定し、施策についての適切な効果の把握と評価、あらたな技術の導入等を行ない、
それらを計画と実施に反映させるなど、柔軟な計画とします。」同計画8頁より。
この段階的目標の「あるべき姿は ■水質保全:昭和30年代の水質 ■水源かん養:自然の水循環を生かす淡海の森と暮らし ■自然的環境・景観保全:湖の環境を守る豊かな自然生態系のなかで、多様な生物の営みによって四季折々に美しい固有の景観を見せる琵琶湖」同計画9頁より。
あるべき姿のイメージは
「活力ある営みのなかで、琵琶湖と人とが共生する姿」として次のように列挙しています。
琵琶湖の水は、あたかも手ですくって飲めるように清らかに、満々として
春には、固有種のホンモロコやニゴロブナ等がヤナギの根っこ、ヨシ原、増水した内湖や水路等で産卵し、周囲の山並みは淡緑、淡黄のやわらかな若葉と、常緑の木々との鮮やかな彩をみせ
夏には、緑深い山から吹く風が爽やかに湖面をわたり、湖辺の公園では、水遊びをする人々の姿が見られ、足元にはさらさらとした砂地と固有種セタシジミの感触
秋には、固有種のビワマスが体を赤く染めて河川や水路を山里深く遡上して、豊かな森の土に育まれた水量豊富な渓流で産卵し
冬には、エリ漁を背景にカモが群れ遊び、湖辺では荒田起こしの作業の側で、サギが餌をついばむ」 同計画9頁より。
西の湖美術館づくりは上記のとおり、マザーレイク21計画の実現を西の湖での様々な施策実験を積み上げ、マザーレイク21の計画目標実現に寄与したいとの提案です。
しかし、次の諸点から実現を更にスピードアップし実施計画もより現状改革的な内容を持つべきだと考えています。
地球の現環境維持の困難性、資源の枯渇などが現実の課題となりつつあること。
わが国高齢化の進展、人口減少を考慮に入れること。
農業を聖域化しないこと。
戦後の60年は日本の歴史の中で特異な時代であり、農村から都市への急激な人口の移動が行なわれた。その結果生じた次の事項の修正を着実に実施すること。
本来造ってはならぬ場所に工場や住居が建った、このため治水は後追いに廻らざるを得ず川は直線となり岸辺はコンクリートに塗り固められる結果となった。
利便性追求による自然破壊
夫婦を単位とするマイホーム自己勝手主義とコミュニティの崩壊
景観への取り組みと持続可能な社会造りが同じことだと考えること。
修正の実施に際しては地域住民と共に行なう公共工事の方法を考えること。
次の予兆を追い風とすること。
衣食住の分野で古きよき時代の日本を、持続可能なモデルとして探し求める兆しが見えること。
物から心への回帰の兆しが見えること。
最後に子や孫から預かっている地球、琵琶湖そして西の湖と考え行動すること。
(自分の命の継承者である子孫にあなたは破壊された環境を残すのですか)
美術館づくりのあるべき姿をイメージだけに頼ることは充分ではありません。干拓前の内湖群の景観を知っている人にとっては有効であっても、これらコトバを頼りに引き出されるイメージはその人の年代や経験の差によって同一とはかぎりません。
そこで、より明確な視点と目標が必要となります。その内容は次の通りです。
縄文の昔からつい数十年前まで、この内湖群の水環境と景観は、おそらく2,000年以上、大きく姿を変えてこなかったものと推定されます。
我々の先祖は日々の暮らしのなかで、水をいのちの水としてその汚れに日々注意を払って大切に守ってきました。また自然の恵みに感謝しつつ漁をおこない、ヨシ原の手入や湖底のモラ採り(湖底の藻や水草を泥土とともに採取すること。肥料に使う)を行なうなど持続可能な日々の営みの継続によって、豊かで美しい景観を我々の世代に引継いでくれたと考えてよいでしょう。
それからたった数十年、営々と引継いできた先祖の努力を大きく変える事柄が立て続けに起こってきました。
この地域の環境と景観を大きく変化させてきたものは、小中の湖・大中の湖の干拓と舟運が自動車運送に取って代わられたことによる港や水路の消滅と道路の建設、そして水辺保全の関心を失わせた上水道の普及です。
利便性を追い求めた結果、失われてしまった景観が果たしていた役割は何であったかを見つけ出し、今に生かす工夫が求められます。
大中の湖、小中の湖、西の湖の内湖群は中世に長くこの地を治めた佐々木氏、近世の扉を開けた織田信長や豊臣秀次が、わが国の歴史に残る城の築城と城下町の形成、楽市楽座の創設に当たって、舟運と言う当時の人及び物の流れを支える大動脈を考慮した上で立地した要衝の湖でありました。
この地が我が国にとって歴史的にも、文化的にもいかに重要なスポットであるかはNHKの大河ドラマに頻繁に登場することをみても明らかです。
世界の主な都や都市は川や湖などの水辺にあります。そして、その水域と調和した建造物や町並みが美くしい景観を形成し、長く保全されていることを考えた時、たとえ短期間であったにせよ日本の都であり、世界にもその壮大さと美しさが伝えられた安土城の立地理由となった内湖群を、保全の対象から除外して我々の世代が簡単に消滅させてしまったことに今となっては強い疑問を抱きます。
世界では世界遺産が文化遺産、自然遺産、そしてその両者によって作り出される複合遺産と言う分類によって保護されています。時変り、わが国も景観法の制定によってやっとその保護に乗り出していることの重要さを意識すべきであるし、それが私達の暮らしの質の向上につながると考えるべきでしょう。
環境団体である当会がなぜ「西の湖美術館づくり」を言い出したのかは次の気づきがあったからです。
西の湖周辺のヨシ原に代表される自然の風景は、手つかずの自然ではありません。どこかで必ず人の手がは入った自然になっています。風景はその時代の暮らしを映し出している鏡なのです。暮らしが荒れたらヨシ原も荒れる。町並みの乱れはコミュニテイの乱れ、風景(景観)の荒れようや乱れようを見て自分達の生活を省みる。
持続可能な社会へのアプローチは風景(景観)の保全から入るのが案外早道かもしれないと考えるようになったからです。
また、かってこの地には多くの人が農作業や漁業の傍ら謡曲や、和歌、俳句を嗜み、連歌の会を小中の湖の弁天島で楽しむなどの伝統がありました。
このような伝統を踏まえて新しい生活の楽しみを作り出そうとヨシに因んだイベント(ヨシ舟による沖島渡り)、祭り(ヨシ松明祭り)コンサート(ヨシ笛コンサート)、絵画(ヨシペン画)、物語(ヨシ物語の紙芝居)、狂言(琵琶の湖、琵琶の湖その後)などに取り組んできましたので、これを美術館づくりの中で取り上げて地域の人に流行らせたいとおもっています。
持続可能な社会は沈滞した社会ではありません。明治維新以来の富国強兵の陰に押しやられて低い評価を受けていた江戸時代が、物については持続可能な社会を形成する傍ら、花見、園芸、花火、浮世絵、芝居、浮世風呂など世界的に見ても質の高い生活を楽しむ庶民文化を花開かせていた時代だったことを思い出すなら、このような生活文化の推奨もまた持続可能な社会への入り口となると思っています。
a.現存する水郷については、すでに近江八幡市が「水郷風景計画」として住民意見を
求めておられる段階にあります。当会としては安土町が早急にこの計画と調和の取れた計画の推進を求めます。
b.それとともに消失した湿地の再生が世界的な課題となっていることからも内湖の復元に取り組む必要があります。しかしながら現状はそこで働き、そこに住む人がいる限り容易な問題ではありません。そこに住む人達のご意向と、湿地再生の動向を見ながら、次のステップで対応したいと考えます。
1)景観法に基づく保全を小中の湖の干拓地、大中の湖の干拓地の農地にまでおよぼすこと、ラムサール条約の対象にこの地域を加えることなどの現状保全を進めることが先ずその第一歩です。
2)次いで、干拓前の地図は有りますし、残された写真は少ないものの干拓前の景観を記憶している人も残っていますので、この人たちの記憶を記録に止める活動を行なうことにより(現在進行中)、これ等を参考に現状で可能な復元をおこなうことが次のステップとなります。
3)また、高齢化の進行や少子化により跡継ぎが無く放置される田畑が生じた時などの機会を捉えて更に復元を進めることが景観保全の目標になります。
景観は必ず継続的な保全が必要になります。当会は環境コミュニティビジネスで対応しようと試行に入っています、その方法は下記3の事例を参照下さい。
マザーレーク21計画の水質目標は昭和30年代の琵琶湖の水質ですが、西の湖の水質については一歩踏み込んで大中の湖の干拓着工前の水質(和21年)、小中の湖着工前の水質(昭和17年)を目標とします。
目標とする時期の水質分析資料があれば良いのですがこれらが期待できないときは、ど
のような魚が棲んでいたかによって推測することにします。
例えば、オイカワやアユがいた場合は水質の区分(レベル)B(BOD:3以下、COD5以下)。アマゴがおれば水質A(BOD:2以下、COD3以下)というようにするのです*。
*注:出典:川と湖の博物館
このようなことから第一目標をオイカワの棲む水質*におきます。
注:この目標は実現可能と考えています。西の湖の中央部(小中の湖の排水の影響の無い所)のCODは現状で4〜5であり、西の湖に流れ込む山本川、蛇砂川の水質もまたこの目標が達成可能です。問題は安土川(小中の湖の排水を含む)と黒橋川です、いずれも西の湖への流入口のCODは7〜8です。またオイカワ(ハイ)は西の湖に今も部分的に生息していますが、どこででも見られるようにしたいというのがこの提案です
どうしても困難な場合には極力エネルギーを使用しない構造物を併用します。
さしあたって、実施したい内容は下記3の事例を参照下さい。
今まで西の湖美術館のイメージや目標を説明してきましたが、「それでは充分でない具体的に何をしようとしているのかを知りたい」と思われる方がおられると思います。
具体的な問題とその解決は、連絡協議会の皆さんに当会が現在進めているか進めたいと思っていることを例示として示しますので、意見や対案を出して下さい。
そして、共に現場の知恵を出し合って美術館づくりを進めようと思っているのです。
しかし、安土山を囲む菜種の湖を作るとか、春から秋は水田と稲穂の波、秋から
春へは水田の冬季湛水で安土山を半島とする心意気が地元の人にあっても良いでしょう。
ヨシ原について言えば、毎年繰り返される自然の営みと人による手入れのコラボレーシヨンによるヨシ原の保全(ヨシの芽吹き→ヨシ焼き→ヨシの生育→枯れヨシ→ヨシ刈→枯れヨシの収穫)。
水辺について言えば、毎年盆過ぎから始まった湖底の水草と泥の採取によって、美しく健康な湖底の保全(田舟による もら採り→田畑の肥料として使用)がおこなわれてきました。
しかし、これらの保全は採算性やきつい肉体労働のため今では行なわれていません
継続した手入れが行なわれないと景観と環境が損なわれ、荒れ果てる道を辿ります。
当会ではコミュニティビジネスで手入れの継続を図ろうとしており、それなりの目処がたちつつあります。この成果を連絡協議会の皆さんに公開することにより手入れの継続を図ります。
木村正雄先生は西の湖のヨシと難波のアシを京都の祇園祭の山車・芦刈山で繋ぐ狂言「葦刈り男」を作っていただいています、尼崎の大覚寺では芦刈り山のミニチュアと芦刈男の人形がすでに出来ています。西の湖でも芦刈山のミニチュアと葦刈女の人形を早く作れと言われています。是非実現したいと考えています。
a.どのような魚貝類が棲んでいたかを琵琶湖干拓史と、聞き取り調査により確認する。
b.その結果を現状と比較する。
c.元に戻すためのステップとして当会が考えている次の内容を、学識者のチエックと協力を受けて実施します。
1)植物プランクトンの発生を阻害する除草剤の使用を西の湖周辺の自治会に働きかけて自制していただきその結果を見ることにします。
2)昔西の湖でシジミが良く取れた場所の湖底の泥土を除去し、砂で覆土を行なう。
その場所を網で囲いカラスガイ、ドロガイ、イケチョウガイ、セタシジミなどの生育実験を行なうと共にタナゴ類を囲った網に放流します。
ブラックバス、ブルーギルを網で囲い込み、それぞれの卵を好んで食べる魚や水生昆虫を見つける実験を行ないます。
時期別の調査をおこないます。(現在当会の小グループが調査中)併せて水質の良い水辺に見られる植物や水質の悪い水辺固有の植物が含まれているかどうかを確認します。
をおこないます。(現在当会の小グループが調査中)その結果と琵琶湖干拓史に記載されている鳥の種類と比較します。
連絡協議会の協力を得て調査を行ないます。
その上で、連絡協議会周辺の水辺、水田の中で田圃の排水溝のなかでカワニナやヤゴを育てて初夏にはホタルを、夏から秋にかけてはトンボを群れ飛ばすコンテストをしてみたいと思っているのです。
湖底から自然石の積み上げなどによりなだらかな傾斜を持つ護岸へと変更することを行政に要請します。
を次のようにすすめて、西の湖に広がる泥土の堆積と化学物質の拡散を根元で絶つ対策を要請します。当会では、小中排水の先に形成されている三角州状のヨシ原を利用し自然の沈土池を設けてはどうかと考えています。
窒素や燐の吸収を図ると共に、水上栽培の条件に適合した植物を育て、西の湖の物産作りの一助とします。(これは黒橋川、白鳥川、八幡堀についても同様です)
安土川上流部へ誘導し、安土川の水質改善を図ることにより、この流域を魚(特に琵琶湖の固有種)、タニシ、カワニナなどの貝類、蛍やトンボの「やご」など昆虫の幼虫育成の場として、関係農家の理解と協力のもと昔見られた多様な生き物の復活する田圃、ホタルやトンボが舞い、野鳥が飛来する田園の風景を作り出し、周囲の特別遺跡と相まって安土ならではの環境・景観形成を図ることを町おこしの一環として進めたいと思っています。
併せてかって砂地であった場所に砂の覆土を要請します。
青ヨシ・水草・若竹・野草の食品(人や家畜)への利用をはかることにより、西の湖を取り巻く自然環境の保全を環境コミュニティビジネスでおこなうことや、湖底泥土、食品化・飼料化できない水草、生ゴミ、家畜の糞尿を相互にリンクさせて堆肥化し高付加価値の安全安心有機名物野菜を育てる静脈産業の創造に挑戦する予定です。
堀切から大中の湖干拓地に取水している承水溝を延長し白王地区を経て西の湖と繋ぐことにより西の湖に琵琶湖との還流を取り戻し琵琶湖の湖魚の産卵場、保育場の復活を図ることを行政に要請します。
この堤防を西の湖を一周出来るユニバーサルデザインの自然観察周回道路(自動車道路と切り離したエコツーリズム目的の徒歩および自転車道)として利用する意見を提案する予定です。なを、この堤防の設計に際しては生態系の維持のため西の湖とそれを取り巻く陸地との連続性を保つ工夫(エコトーンの形成)を堤防の所々に設ける必要があると考えています。
は、例えば西の湖に面した敷地の外周にBSL140cmの高水に耐えうる石積みの防水壁を設けることで対応してはとの意見を持っています。(なをこの防水壁が景観や、緊急避難用の自家用ボートなどへの乗り降りに支障をきたす場合には石垣に凹状の部分を設け、高水時には厚板の防水板をはめ込むなどにより対応する)。
不要施設の除去を関係行政に要請します。
西の湖環境・観光舟運行のため、かってヨシ原のなかに存在した舟による航行可能な水路の復元(航行を妨げる固定橋または部分埋め立ての撤去)。
水路に許可無く架橋したり埋め立てたりした原因は車両等によるヨシ田・ヨシ原への乗り入れ(手入れのための)にあるので、それに支障をきたさぬ様、跳ね橋、折りたたみナイフのような舟の航行に支障をきたさない可動橋の設置。
ヨシ原内の自然観察道(尾瀬の木道のような)の設置。
4)水辺とヨシと田圃という癒し空間を活かしたセラピー施設についての検討。
琵琶湖汽船の琵琶湖航路とタイアップした 舟による近江八幡・安土の水郷と歴史遺産の探訪ツアーを考慮にいれた西の湖の桟橋等の整備と係留船の規制の実施。
追記 以上の例示のなかに、当会としては一番に取り上げたかったのに身内にかかわることだけに出せなかった二つの施設があります。
その一つは近江八幡の円山のヨシ原のそばに、当会会長の西川嘉廣の私設ヨシ博物館がありますが、その蒐集資料と莫大なヨシ商いの記録を中心に収納するヨシ博物館を出来ることなら琵琶湖博物館の分館としてつくりたい。
他の一つは安土町下豊浦のヨシ原のそばに、当会の西の湖の語り部である奥田修三が長く実施してきた西の湖探検学習を発展させ、主として小学生対象に持続可能な生活を体験する体験学習センター(仮称 うみとヨシ原の暮らしのやかた)をつくりたい。いずれも日本建築の在来工法(木造ヨシ葺)による。
行政と企業と地元の人たちの同意と協力のもと是非実現したいと思っているのです。
差し当たり次の地域を対象として進めますが、関係の深い伊庭内湖の周辺、白鳥川の流域も視野に入れた検討を進めます。
*注:山本川(含む常楽寺港に繫昊がる河川や堀)、安土川(含む小中干拓地からの排水)蛇砂川、黒橋川(含む北の庄沢)
対象となる地域の自治会と自治会員
対象となる地域のNGOやNPO
対象となる地域で治水、利水、景観、環境の保全にかかわっている事業者
近江八幡市、安土町、滋賀県それぞれの行政関係者
近江八幡市、安土町、滋賀県それぞれの議会議員
西の湖美術館づくりに参加いただける学識経験者(含NGOやNPO)
「何時、何処で、何に、どのような変化や異常がおこっているのか」を関係する行政に連絡すると共に、連絡協議会事務局に併せ連絡下さい。また、「それに対しどのような対応をしたのか」など対策を採ったときにはその内容も併せ連絡下さい。事務局は参考情報として各自治会やNPOに流します。
*注:例えば、大量に魚や鳥が死んでいる。藻が異常発生をしている。揚水ポンプの吸水パイプに泥が詰まって動かなくなった。ヨシ原に大量のゴミが捨てられている。などをいいます。
西の湖の現状改善を求める*事項があるとき
「何処の、何を、どのように、何時ごろまでに」改善を求めるのかを行政に問題提起すると共に、連絡協議会事務局に併せ連絡下さい。
事務局は協議情報として各自治会やNPOに流し、意見交換の場を準備します。
注:西の湖美術館づくりのテーマの殆どはこの項に該当します。
A 改善内容の提案:自治会・NPOは何故改善を求めているのかその理由、問題点は何かを提起し議論を始めます。参加者は提案者の話しを良く聞き、自由な質問、自由な意見交換から入ります。この場合、人は顔かたちが違うように、異なった様々な問題意識を持っていますから、提案者は丁寧に自分の意見を説明するとともに、自分の問題意識や立場にとらわれることなく議論に参加している他の人たちとの自由な意見交換に参加します。(自由な発言の尊重)
B 解決策の討議:問題点の解決策を討議します。このときは徹底した議論をします。
解決案は一つに絞る必要はありません、複数あったほうが良いのです。(徹底的な議論の尊重)
C 解決案の形成:複数ある解決策を、緊急度、実現可能性(技術・工法)、コストなどの観点から一つに絞ります。
決案は関係住民や関係者に示し同意の取り付けを進めます。
関係者への同意の取り付けの終わった案件から順に行政に提案し、早期の実現を求めます。
注:関係住民の殆ど、関係者の殆どが同意しているに関わらず、対案や意見を述べずに反対する人がいる案件については、同意の取り付けが終わるまでその案件は実現しないことになります。
以上
(参考)この西の湖ルール策定にあたっては、東京都が実施したTAMAらいふ21事業 多摩地方の水と緑の保全に取り組んだ「湧水崖線研究会」が定めた「三つの原則・七つのルール」があります。その内容は次の通りです。
この資料は能登川町出身の建設省の技官であり河川行政を見直すきっかけを作られた一人であった 関 正和さん(平成7年54歳で早逝)の著書「大地の川」から引用しました。
自由な発言
参加者の見解は所属団体の公的見解としない。
特定個人・団体のつるし上げはおこなわない。
徹底した議論
議論はフェアプレイの精神でおこなう。
議論を進めるにあたっては実証的なデータを尊重する。
合意の形成
問題の所在を明確にしたうえで、合意形成をめざす。
現在係争中の問題は、客観的な立場で事例として取り扱う。
プログラムづくりにあたっては、長期的に取り扱うもの及び短期的に取り扱うものを区分し、実現可能な提言をめざす。
以上