第18回
2001年12月6日 菱川貞義
人間の愚かさは無限?
 地を這う虫は自分はまっすぐ歩いていると感じている。この虫にまるい地球の上にいるということを理解させることは不可能だろう。
 
 人間に“地球市民”であるという意識を持たせることもかなりむずかしい。しかし、人間は、この虫とは決定的に違うところがある。いまや人間は地球がまるいことをハッキリと意識することが可能だからだ。そして人間はまさに地球を有限の1個のボールと見る責任がある。人間は地球の犯罪者なのだから。
 
 昔、地球に存在する実は無限だと思われていた。少なくとも有限だと意識する必要はなかった。人間が虫と大差なく暮らしていた時代は。
 
 虫はいまでも地球の存在を気にすることなく暮らせる。虫は地球を傷つける術をもっていないのだから。一方、人間は地球をかんたんに傷つける能力を身につけた。そうしてある義務が生じた。地球市民として行動する義務が。
 
 地球をかけがえのない、たった1個の限りある資源を持つボールと認めることができる人間には、この義務行動はとても容易なことに見える。しかし現実はそうではない。「これ以上の負荷を地球にかけられない」と認めながら、負荷が減る様子が見られない。21世紀になってもなお「地球はこのままでは危ない」という事実から目をそらし続けている。
 経済はいつになったら環境コストや生態系を正当に計算するようになるのだろうか?

 「地球がこわれる」と意識しながら、いまの大量消費型経済を続けようとするのはどういうことなのか。人間はそんなにも愚かなのだろうか?
 
 愚かな人間が愚かな行動をとらないで済むために、ぼくが、いまずっと考えているうちのひとつが“まなざしについて”だ。
 
 まず、自分を大切にする“まなざし”。自分のいのちを尊ぶことができなければ他のいのちを尊ぶこともできない。
 そして、自分は宇宙や地球という生命体の一部であるという“まなざし”。これは、自分が他人よりどれだけ幸せか、他人よりどれだけ賢いか、といったようなことが無意味だと気づかせてくれる。


 「自分という1個のいのちがこの世の中でとても尊く、その1個のいのちが多様な尊いいのちと共生している」ことを強く感じることができる2つの“まなざし”はどうやって育まれるものなのか。
 
 愚かな人間としていろいろ体験しながら、いっしょうけんめい考えていることは.....
 
 例えば、子どもに「自然を大切にしましょう」「親を大切にしましょう」と知識として暗記させる前に、子どもに「自分が大切にされている」ことを伝えることが大事なのではないか。大人が子どものいのちを大切に見守ることで、子どもは自分のいのちの大切さを尊ぶようになる。そして自分も他人のいのちを見守ることができる。多様ないのちのふしぎを感じることができる。
 
 そして想像する力にもっと関心を寄せること。知識は確かに重要だが、人間が所持しているわずかな知識では自然のどれほども解明できはしない。これまで安全とされてきた知識も次々と役に立たなくなっている。しかし想像力は無限に存在する。想像力はもっと環境に役立つのではないか。

 自分の“いのち”が地球上のあらゆる“いのち”と強い糸でつながっていることを想像するぐらいはたやすいことだ。ゴミや汚染物質が目の前から消えても、幾ばくかの知識と豊かな想像力でその行方を追うことができる。
 
 地球環境を破壊する、人間どうしの戦争はいつになったら無くなるのか。どうしたら無くなるのか。宇宙から地球を見ている自分を想像してみよう。宇宙から見た地球には国境はない。地球がひとつで、その上を這っている人間はみんな仲良くしているのが似合っているように、ぼくにはどうしてもそう見えてしまう。
 
   環境のことを2つの“まなざし”で研究してみてはどうだろうか。
 
 ぼくの、現段階での研究成果はこうである。
「2つの“まなざし”を持っている者は幸いである。きっと21世紀を楽しく生きていけるだろう。」

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