西川嘉廣さん
西川嘉右衛門商店会長

第19回
生活から遠くなった、さみしいヨシ
2001年12月13日 菱川貞義
 確かに小学生は子どもですが、しかし、すでに子どもたちは社会の一員です。学校の外(地域)で起こる学習は、社会人としての体験にもなっていきます。
 植田先生は地域のヨシにも注目しながら、子どもたちの生きる力(主体性)を引きだす教育と葛藤しておられます。

 

「小学校では来年度から正式に総合学習がスタートします。『教室でそんなじっとして、わけのわからん、生活と結びつかん勉強はなかなか』という子どもたちの状況があって、体験的な学習をつくろうという動きが出てきてるんです。」
「私は、ヨシのこともいろいろ興味を持って考えているんですけど。以前からいくつか挑戦してきていることがありまして。」
「ここのクラブ活動は、子どもたちから『こういうクラブを作りたい』という声からはじめているんです。」

 
 子どもたちが自分のモノとして意識しているクラブ活動はどんどん子どもがかかわっていきます。
 
「『つりクラブ』があるんですが、子どもがブルーギルとかを釣ってきた時に、学校で飼おうと思ってましたら『殺してしまおう』と言う子がいました。そういうふうに積極的に言う子が出てくるんです。」
 

西川さん
「それもひとつの考え方ですね。固有種がやられていますから。でも外来種も自分が外来種だとは思っていないですね。いのちあるモノとしては同じ。人間が勝手に外来種と呼んでいるだけなんだから。いろんな考え方ができます。」
 
 ふつう、先生が「飼おうか」と子どもに提案したら、たいてい「まあいいか」という感じでしょうね。

植田さん
「子どもたちと地域に出かけますと、黄色い畑がぱっと目立つわけなんです。で、行ってみて、チョウチョも飛んでるしハチもとんでいるし。ナタネに興味を持って、いまは地域ではあまり重要なものではなくなっていますので、それをもらってきましてね。それでタウンページとかを検索して、油を搾る方法を考えていろいろ挑戦してみたんですけど、できなくて結局工場へ持っていって搾ってもらったんです。それでその油を地域で販売するところまでいこうとやってるんです。」
「おもしろかったのは、工場まで持っていったときに、子どもたちはまだ聞くんですよ、『自分たちで搾れんか』って言うて。『自分たちでやりたい』とこだわっているんです。工場のすごい設備を見てはじめて『こんな機械が要るんやったら自分たちにはできん』と、やっとあきらめて工場へ預けてきました。」
 
 
「また、米を学校田で育てながら、新しい農法、不耕田の実験もしました。めだかもいっしょに飼ったりしながら、収穫した米を天日干しにしたり、原価計算をして、米作りはもうかるんかということをついこないだやったとこなんですよ。」
「こういうふうに理科と社会と算数をうまくミックスしたりするなかで、生活が見られる子どもになっていかなあかんとうことでやっているんです。」
「ビオトープも作ってます。まだ手探りでして、うちのビオトープは夏に泥遊びをするようなものなんですよ。自分で加工可能なものにして、なんかできあがったものを置いてあるんじゃなくて、みんなで池の形を考えたり、水の流れをどうするとかいろいろやりたいんです。そんなことをしながら植生を考えていったりしてるんです。」

 まず子供自身が考える。専門家はあとでいいんですね。
 
「みんなで大きなスコップをもって作ったりしたんですが、それがどれだけ教育的になっていくのか分からないですけど。田んぼの用水に頼らなくていいように上のほうから水をひけないかだとか、いろんな環境学習をつんで、発展して食物連鎖とかの学習になったりしていると思います。」
「『自然遊びクラブ』では、西川さんとこにもサイクリングがてらに遊びに行かしてもろて、舟に乗ってヨシ原をずーっと見るようなこともさせてもらいました。」

 

「でも、ヨシにまだ手が出ていないんです。」
「それはいくつかの原因がありまして、私が思うにはまだ生活との結びつきが弱い。米とかと比べると私たちとしてはかなり比重が落ちてしまうんですよね。残念ながら。いろんな構想はあるんですが。」
 

「卒業証書なんかみますと、子どもがすいたヨシ紙を使いたいとか、いろいろ思うんですが。」
 
西川さん
「大津辺りではやっているところも出てきていますね。」

 

(次回につづく)


 
 西川さんを取材していて、琵琶湖のまわりや他府県でも、ヨシのことを考え研究しておられる方がたくさんおられることが分かってきました。そんな方々のところへもぜひ取材に伺いたいと思います。「私もやってます」とか「あの人がやってるよ」という情報をぜひとも、こちらにお寄せください。
またはiken@shiminken.netまでメールでお送りください。

 前回のつづきで、ヨシ生産者の次なる仕事は収束です。
 
 収束(葦荷)は、選別作業のため“葭場”(よしば)に移送されるが、これを“葭引き”といい、これには今も主として昔ながらに田舟(葦舟、葦小舟、葦刈小舟)が利用されている。葭引きで昔と変わった点といえば、舟に強化プラスチック加工が施され、船外機が取付けられるようになったこと、また農道整備に伴い一部でトラックによる搬送も行われるようになったことぐらいである。
 
 葭場に運ばれた収束は、円錐状の“丸立て”にして、風乾させたあと、先ずヨシを長さによって仕分けする“段抜き”(または“葭抜き”)作業に付し(普通、12尺以上、11〜10尺、10〜9尺、9〜8尺、8〜7尺と1尺(30cm)きざみに分別していき、最後に6尺以下のものを“抜き下”としてまとめる)。次いで用途に応じて品質により、一本一本のヨシを手作業で選り分ける。この選別作業では、曲がり・虫食い・しみ(真鍮色の斑点)のあるヨシをはね、太さを揃え、さらに葉鞘に途切れのある“赤口葭”、途切れがない“白口葭”葉鞘を付けたまま使用する“皮付き葭”に分けるが、これには相当な熟練を要する。選別技術者は、刈り子さんも同様であるが、ほぼ全員高齢化しており、後継者問題が年々深刻さを増している。
 
 5月中旬に丸立てのヨシがすべて倉庫内に収まると、その日を“葭仕舞”(よしじまい)と称する。「西川歳時記」には、“葭刈初”および“葭仕舞”の日の諸行事につき、詳しく記載されているが、少しだけ紹介すると、例えば大正12年度の葭仕舞は5月1日で、恒例により従業員慰労の宴を自宅で催し(注、今は外食)、勤勉度に応じて白木綿を支給したとの記述に続き、“葭仕舞の馳走了レバ下男ハ右馳走ヲ親里ヘ持チ帰リ一拍ナシ翌日帰宅ス 親里ヘ帰ルトキハ右ノ如ク餅ヲ壱重宛持シ帰ラス事例ナリ 故ニ翌日ハ一家休ミトス”と記されている。
 
(西川さんの論文「ヨシと人の暮らしとの係わり」からの情報)
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