第4回
2002年7月4日 東恵子

今年の「近江八幡・左義長祭」

 2002年3月17日、日牟礼八幡宮の前に「左義長」が集まりました。もともと小正月の行事で、無病息災を願い1月15日に行われていましたが、明治8年から新暦のため3月14、15日に近い土・日曜日に開かれるようになりました。
 しかし、今でも市内の村や町では、氏子になっている神社の祭り「子供左義長」として1月15日に行われています(中小森町の「子供左義長」を後でくわしく紹介します)。
大勢のアマチュアカメラマンも詰めかける日牟礼八幡宮の「左義長祭」
海産物で作る「だし」
 左義長の本体はわらで編んだ高さ約3メートルの三角すいの松明(たいまつ)です。その上に数メートルの青竹を立て、細長い赤紙やくす玉、扇などで飾ります。
 左義長の中心には、その年の干支をかたどった「だし」をそえ付けます。だしは「左義長の眼」にあたるそうで、各小路とも費用と手間をかけ、手作りされています。そのだしがちょっと変わっていて、海産物や穀物など食材を利用して作っています。
 たとえば、今年の「だし・コンクール」(日牟礼八幡宮の左義長祭では、毎年だしの出来ばえを競うコンクールが開かれます)で優勝した宮内町のだしは、「信長上洛」というタイトルがついていて、牡丹の花で表現した信長公が白馬に乗って登場する場面を描いています。
 材料はするめ、黒豆、ひじき、木くらげといった乾物が中心です。ほかの材料では、ラムネ菓子やソーダ飴、ポン菓子、錦糸玉子なんていうのもありました。
 だしのタイトルやその材料などを記した近江八幡観光物産協会発行のだしの説明書は、当日付近の観光スポットなどで配られるので、見学に行かれた時は手に入れると、祭りがより楽しめますよ。
2日目に燃やしてしまうのが惜しいくらい見事な宮内町の「だし」
中小森の「子供左義長」
器用にピンピンの「こより」を作る夫
 唐突ですが、嫁いで初めてのお正月のことです。夫の千秋は、おもむろに器用な手つきで「こより」を作り始めました。細くて固く、私にはとても作れないほど上手で、こんな特技があったのかとびっくりしました。でもなぜ、正月早々こより作りなの?
 それは、小正月の行事「子供左義長」の準備のためでした。
 日牟礼八幡宮の「左義長祭」は新暦の3月に行われるようになりましたが、周りの村や町では今も1月に行われています。ここ中小森町では近くの「菅田神社」の氏子が約20件ずつのグループに分かれて一つの「左義長」を作っているそうです。
 もともと、中学3年生までの男の子が準備をし、大人(家のあるじ、長男)が本体となるわらと竹の松明と「だし」を作るならわしだったので、「子供左義長」と呼びます。けれど、少子高齢化で子供が少なくなったので、各家で準備をするようになり、ほとんどが大人たちです。
天目一箇神(あめのまひとつのかみ)を祭神とする「菅田神社」。製鉄の神様と言われていて、鉄を焼く火の粉が飛んで一つ目になってしまった神様だとか。延喜式神名帳に記された、由緒正しいお宮さんです。
 準備は、氏子代表の神事係(持ち回りで担当します)を中心に行います。
 各家では、細長く切った赤い紙に穴を開け、こよりを通してのりでひっつけたものを約40枚用意し、1月15日に最も近い日曜日、神事係の家に持って行きます。今年はその日が12日でした。
 左義長のだしは氏子の男性たちが総出で手作りします。神事係が前日、竹やぶから切り出した竹と、まだ緑色の残る新しい稲わらを用意します。干支の「だし」は、神事係の家で手作りします。「左義長の眼」ともいうほど大事だと言いますから、お正月ものんびり寝正月を楽しめないでしょうね?
 土台となる三角すいの「松明」を作り、だしをそえ付け、「左義長」を完成させていきます。作業は毎年、和気あいあいとした雰囲気の中で続けられ、口伝で代々受け継がれていきます。祭りは、地域の人たちの世代を越えたコミュニケーションにも役立っているんですね。

竹やぶから切り出した竹を揃え、左義長作りをはじめます。

左義長の土台となる「松明」作りは口伝で受け継がれています。
完成した中小森町の「子供左義長」。干支の馬をモチーフにしただしは今年の神事係、大橋さん一家が作りました。