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第8回 |
2002年11月14日 東恵子 |
朝鮮人街道ものがたり |
「朝鮮人街道を通って守山へ抜けたら」 「朝鮮人街道沿いのホームセンターへ寄って来て」 夫やお母さんなど地元の人たちは、道の説明をする時に「朝鮮人街道を通る」と、よく言います。地元の人の生活に密着した便利な道路らしいのですが、なぜそんな呼び名があるのでしょうか。昨年末に嫁いで来て、いつからか謎に包まれた街道の正体を知りたいと思うようになりました。 その「朝鮮人街道」を通ったとされる「朝鮮通信使」ゆかりのまち全国交流会が10月19,20日の両日、近江八幡市内で開かれましたので、謎とともに2回に分けて紹介したいと思います。 |
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はじめに注意したいのが、地元の人が「朝鮮人街道」を指す道路は、今でいう「大津能登川長浜線(県道2号)」の一部のようですが、歴史的に名づけられた街道は、野洲の行畑から彦根の鳥居本間(約40キロ)だということ。近江八幡市内では、小船木から願成就寺を通り、京街道を経て仲屋町、出町、繩手町へと通って行く経路を使ったそうです。 |
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鎖国の時代にも「国際交流」 |
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朝鮮通信使とは、江戸時代、江戸幕府へ向けて往来した朝鮮国の「外交使節団」の事です。朝鮮通信使たちは、通過した日本の町に朝鮮の文化を広めたといいます。岡山県牛窓町の「唐子踊」や三重県津市に伝わる「唐人おどり」など、今に伝わる異国情緒あふれる祭りもその一つです。 江戸時代になぜ、海を超えた交流が行われたのでしょうか。 近江八幡市の歴史を研究している山中靖城さんによると、豊臣秀吉が引き起こした「朝鮮侵略」を反省し、国交の回復に努力したためといい、鎖国の時代にも朝鮮と琉球(沖縄)を、心を通わせる「通信の国」、オランダと中国を、交易の為の「通商の国」と位置付けていたそうです。 |
淀川では船の大パレード |
最初に朝鮮通信使が日本を訪れたのは、1607年。最後に訪れた1811年まで、約200年の間に12回訪れています。将軍が変わるたびにお祝いに訪れ、また、朝鮮の王様が変わると、日本からも将軍の使節が釜山(プサン)まで行ったそうです。(辛 基秀=シン ギス=さん著「江戸時代の日本と朝鮮・解放教育読本『にんげん』」より) 江戸まで往復8ヶ月以上の旅です。日本からは、対馬藩の船が釜山(プサン)まで出迎えに行ったそうで、一千隻にものぼる船団が対馬から瀬戸内海を経て大阪に向かったそうです。 大阪の淀川では、川御座船(かわござせん)パレードが繰り広げられ、川筋には大小の商船があふれ、両岸には大名屋敷が軒を連ねて立ち並び、入り江に船を繋ぐありさま。何万人とも知れない人出だったそうです。また船はすべて灯りをともすので、夜でも白昼の明るさだったといいます。その後、京都から近江(滋賀)、尾張(愛知)から駿河(静岡)、伊豆をたどり、江戸に到着しました。 |
ゴージャスなお昼ご飯 |
さて、朝鮮通信使は12回の来日中11回、近江八幡市に立ち寄り昼食をとったそうです。街道には当時、近江商人のお屋敷や寺院などが並び賑わっていました。中でもひときわ大きい本願寺八幡別院(金台寺=こんだいじ、西別院ともいいます)で、上官クラスの人の昼食がふるまわれたそうです。ちなみに中官クラスは、「正栄寺」、下官クラスはでっちようかんの店「和た与」隣の「蓮照寺」で昼食をとったそうです。 |
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今回の催しでは、第7回の天和2(1682)年の来日の時に作られた豪華な接待料理を再現し、旧伴庄右衛門家本宅(市指定文化財)で展示していました。近江八幡市発行の朝鮮通信使資料「八幡山の宴」によると、からすみ、鮒寿司、あわびなどの高級食材をふんだんに使ったものだとか。現在の価格に換算すると? 解説係の方も答えてくれませんでした。 |
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また、この催しでは接待料理の中から選んだ11品を取り入れた特別弁当「八幡の宴」を作り先着順で販売し好評を得たそうです。メニューは小鯛の焼き物、鯉の刺身、さざえの壺焼き、なますなど。当時は幕府の一声で魚介類もすぐに集まったそうですから、海のない近江でも問題なかったそうです。 |
(次回に続く) |