第11回
2003年3月13日 東恵子

「中小森暮らし」の今昔2
 新年20日には行者講の「寒行」がありました。中小森町の100軒の家を托鉢姿で無病息災、家内安全を祈りながらお経を唱えて回るのです。その時、家々から頂く寄付は当番の人が責任を持って管理。お堂の修理などに大事に使われます。

 この町には祭りの神事係や自治会、講の仲間や田んぼを持つ家による改良組合、婦人会などなど、いろいろなグループがあります(田舎ならどこでもあるのかも知れません)。そのためか、皆が組織の運営に慣れているような気がします。気の合うご近所さん同士で積み立て貯金をして、旅行に出かけたりする方々もいらっしゃいますが、それもお金の管理がつきまといます。

 トラブルなく回っていけるのは、相互の信頼関係が成り立っているからでしょうね。
久しぶりの雪に大喜びの大橋さんちの子供たちは、早速「雪だるま」を作りました。カメラを手に通りかかったので記念撮影をしました。

毎年2月20日は伊勢神楽講社、山本源太夫の「獅子舞」がやって来ます。家々を回った後は公民館で舞を披露されます。私もお嫁さんの大先輩・森中孝さんと連れ立って見学に行きました。例年は外の広場ですが、今回は雨のため館内で執り行なわれました。

「頭をかんでもらうと賢くなるよ」とがぶり。

孝さんのお友だちが集まってハイポーズ。

行者堂の前には出店が出ていました。獅子舞につき物の飴「頭ハリ」やニッキ水など、私にはなじみのないお菓子がずらり。


貸し切りバスで大峰参り
 また、6月には大峰山に登る修行も行なわれました。早朝集合し、貸し切りバスで奈良県天川村の大峰山へ行ったそうです。もう十数年間参加しているというお年寄りもいますが、若者の参加は今年も少なかったようです。少子高齢化のためか若者に信仰心がなくなったためか、その両方なのか。どうなのでしょうか?

隣町の加茂町で毎朝立つ「朝市」は、新鮮な野菜や花、お漬物などが安く購入できます。

 役行者の生まれた土地から嫁をもらったということで、夫も大峰参りを勧められていましたが、夫は興味なさげに聞き流していました。思いは人それぞれですから強制はできませんが、私が男に生まれていたら、大峰山で逆さ吊りの修行をしていたことでしょう。

太陽を待つ男たち
 中小森で続いているもう一つの講、「日待講(ひまちこう)」は、春と秋に行われます。この講は、大字のほとんどの家のあるじが参加しています。お月さんを拝んで、次の日の日の入りを待つからこの名があるのだそうです。今では、さすがに徹夜はしないそうですが、以前は当番の家で夜中お酒を酌み交わしたそうです。

 私が夫と初めて会ったのが、今から思えば春の日待講の日でした。
 「今日は、『お日待ち』というお月さんを拝む集まりがあるから夕方6時には家に着きたいんです。4時には引き上げます」。
 初対面の私に、そんな愛想のないことをいうヒトに驚きました。ヘンな新興宗教に入っているのかと戸惑ったことは言うまでもありません。しかし、月を拝むと聞いてちょっぴりロマンチックな感じもしました。

 東家では、約40年前に初めて当番になったそうです。約10種類の料理を小皿に盛り付け、木のケースに1人分ずつ盛り付けるのだとか。
 料理は肉類を使わない精進料理です。献立は、丁字麩(近江八幡の名物、四角い麩。以前紹介しましたので履歴でご覧ください)の辛子和え、小芋のたいたん(お月見だから必須メニュー)、昆布巻き、小魚のあめ煮など。参加者は同じ大字(北出と言います)の男性たちで、みな羽織、袴で正装したのだそうです。

給仕役も持ち回り
 今ではさすがに羽織、袴は着ませんが、それでも皆、スーツ姿で参加します。今回、参加した夫もいっちょうらのスーツで出かけました。
 当番の家でも、今では手作りの小皿料理をふるまうことはなく、幕の内の折り詰めを用意するようになりました(椀物とお漬物など小鉢は今も用意するそうです)。
 そして午後7時から10時頃まで、月を愛でながらの男たちの宴会は続きます。給仕役も持ち回りの当番で決めているので、女性がお酌して回るなんてことはないそうです。
 日待講を行う当番の家は、くじで公平に決められます。日待講は、日頃忙しくて出会うことがない人たちの大事な会合の場でもあります。
 時代は変わり、形は簡略化されても絶えることなく続くのは、この土地の人々の信心深さからでしょうか。

町内への入口と出口には、安全や豊作、人々の健康などを祈願するお札をかけています。


 (原稿は昨年書いていたものを採用させていただきました。実は、1年間この連載のために中小森の暮らしについて話を聞いたり、写真にも登場してもらったお母さんのくりさんは昨年12月11日、急逝しました。 嫁いでようやく1年が過ぎたところでした。まだまだ教わってないことがたくさんあったのにとても残念です。けれど、少しでも話を残せたことは、私達夫婦にとっても幸いでした。これからは、周りの人に聞きながら、この町での暮らしを楽しんでいきます)。