西の湖について

 

水郷

 

 

 

干拓前の西の湖周辺

干拓前

 

 

干拓後の西の湖周辺

干拓後

 現在の西の湖の東側と北側には、それはそれは美しい水を湛えた大きな内湖*がありました。

 東側には安土山を半島にして西に弁天うみ、東に伊庭内湖を併せた小中の湖。北側には近江八幡、安土、能登川一市二町にかけて広がる、中のうみと呼ばれていた大中の湖です。

*注:この内湖の面積は合計で1709ha、内、干拓された小中の湖342 ha、同、大中の湖1145ha現存する西の湖 222ha

 

 これらの内湖は容易に干拓されるくらいですから、水深は平均して1.5m、湖底は内湖に流れ込む川が運んできた泥と砂が適度に分布し、湖岸はその殆どが所々にヤナギの生えるヨシ原でありました。

 

 かっては琵琶湖とつながっていたであろうこれら内湖が、愛知川が運んできた砂を北風がさらに運んで、砂洲を形成したことにより遮断され、外側となった琵琶湖を そとのうみ、内側となった湖を なかのうみ と土地の人たちが呼ぶようになったのは何時の時からかはわかりませんが、それ以来ほんの数十年前まであまり大きく姿を変えることなく豊かな生命を育む湿地として存在してきたのです。

 

 干拓前の内湖を知る年寄りたちは一様に失われた内湖の情景を惜しんでこう言います。

 

 「澄み切った水、砂地の湖底にはコウガイ藻が生え烏貝、泥貝、池蝶貝そしてシジミが砂から顔を出す。水中に立つと多くの小魚が脚をつつきよる。ボテ雑魚やハイ(ハヤ)・オイカワは陽光にきらめく。菜種の頃になると琵琶湖から産卵のために来たモロコが雪解け水によって冠水した田に音をたてて遡ってくる。ヨシ原の岸辺の柳の根には卵を産み付けようと群がるメスのモロコと受精させようとするオスのモロコが重なりあって山をつくる。梅雨の頃には鯉や鮒が産卵のために流れ込む川に群れをなして遡る。川の中にはメダカ、泥鰌、タニシ、小エビ、様々な水生昆虫や昆虫の幼虫が住み、湖周の空には鬼ヤンマ、ギンヤンマが、群れなすシオカラトンボやアキアカネの中をスイスイーと飛んでくる」と。

 

 わが国の古称である豊葦原の瑞穂の国や秋津洲(アキツシマ)の原風景を彷彿とさせる風景がほんの数十年前までここにあったのです。

(「西の湖美術館づくり」より抜粋)

 

西の湖の語り部・奥田修三さん

 

 

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自然農について

 

天日干し

 古代湖・琵琶湖は近畿約1400万人の大切な水源です。そして、その水源を保全してくれているのが、琵琶湖の周りに点在する、内なる湖「内湖」です。湿地である内湖は、流れ込む水を浄化してから琵琶湖に流す役目を担っています。内湖や琵琶湖にはヨシやマコモの群落があり、このヨシとマコモが湖の浄化能力を高めています。それなのに、人間の勝手な価値観で、これまで多くの内湖が開発によって干拓されてしまい、結果、琵琶湖の水環境はひどい状態に置かれています。

 

 私たちの田んぼは、織田信長の居城・安土城があった安土山の麓で、琵琶湖に現存する最大の内湖、西の湖の畔にあります。西の湖はまた、ラムサール条約に登録されている湿地です。西の湖の元漁師さんのお話では、昭和30年代までは琵琶湖や内湖の水をそのまま汲んで飲んだり、ご飯を炊いたりできたそうです。今から考えると、とても贅沢な水です。いっぽう、水を汚している大きな原因の一つが農業による農薬や肥料です。

 

 そこでなんとか、昔のようなきれいな水を取り戻したい、これ以上汚したくない、という思いではじめたのが自然農による米づくりです。田んぼも湿地の一部として大切な役目を果たしています。私たちの自然農の田んぼをとおった水は、浄化されて琵琶湖に流れています。

 

 自然農の特長は、

・耕さない

・農薬、肥料を使わない

・草、虫を敵としない

・何も持ち出さない、持ち込まない

 自然に寄り添った自然農の米づくりを2006年からはじめています。お米は、自家採種米の朝日という品種で、自然交配種の最後の種で農薬をくぐっていない在来種です。
 種おろし、育苗、草刈り、稲刈り、はさがけ・天日干しを手作業で行い、命あるお米をつくっています。籾米のまま保存しておけば、種籾になります。


 

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